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外部化する建築

外気のままにある建築空間に関心を持ってきた。 私の言葉としては「構築された外気の空間」と称している。 普通の認識として建築空間といえば具体的な内外の境界があり内気の場である。 一方、建築空間でありながら空気の状態は外である場、そのような空間は伝統的に日本の空間にあることは周知の事である。 深い庇の下や、下屋とよばれる軒先に柱がありその内側で庇よりもより奥行きの深い中間的な領域で、その時の意識次第で内部的とも外部的とも感じられる「縁」の空間がそれである。アジアの多くの地域、とくに高温多湿なモンスーン地域に属する場所には「自然と共にある生活領域」として不可欠な普遍的空間である。欧州のように寒い国にあっても外気の空間を楽しむロッジアとして、あるいは中庭に面する外気のままの回廊として古くから建築化された特別な場である。

翻って現代の日本の日常的に体験する場に、この「構築された外気の空間」がいかに少ない事か。 外気と触れあい自然の意義を文字どおり体で感じる事を忘れている今日の人々の生活意識がある。そのことを如実に感じるのは、車窓からみる田園風景のなかにある民家のたたずまいに対してである。全ての家は閉じた矩形に窓を穿った箱となり、そこにあるさわやかな緑と清冽な空気のなかで過ごす場という自然と共にある生活をイメージさせる空間を見出す事はできない。都市の風景と変わらぬ住居の在り方、嘘のような田園風景の実状である。極たまに見かける取り残された古民家と言うべき農家の、庇と下屋のたたずまいにのみ自然と関わりのある生活とそれを支える空間がこの国にも在った事を思い出させる。 戦後60年以上経過する歴史のなかであらゆる場所が近代工業化社会の在り方に組み込まれて「都市化」の影響下にあった。そして都市と田園とに関わりなく人々の意識に通底してもたらされたものは「過密」と「効率化」である。 そのことが建築に表された要素で言えば、あらゆる空間は空調された、人工気候の空間となったと言う事が出来る。 過密と効率化の意識は空間を閉じさせ、内外の境界は壁と開口部という画一的なものとなりヒダのある曖昧な内外境界は消滅しているのが我々の接する日常の空間である。

今ここで、伝統的建築文化の復権を論じようとするのではなく、戦後60年間に変化してしまった人々の身体感覚を問題視すべき事と指摘したい。 少し汗をかいたり、寒さに衣服を重ねたり自然との応答で身体的な適応の反応は健全に生きることの表れである。 にもかかわらず、あらゆる時間を人工気候の中で過ごすことに慣れて(なってしまった)しまった身体にとって、暑い事、寒い事は、今や在ってはならないことであり、常に一定の「快適な気候」でなければ即不快であると言う意識が一般化している。 生き物としての自然なサバイバル能力を失うまでの状態が一般化してしまった。 機械に支配される身体、それは自然との応答についてのみならず、コミュニケーション能力の欠如という社会現象にも及んでいる。驚異的な能力を持つコミュニケーション・ツール、携帯電話、PCを手に入れた人々は身体的生身のコミュニケーション力の欠如、あるいは対人関係性拒否の感覚におそわれている。 ここでは機械的なる事という見えざる力に管理された肉体、無意識下の不自由、自由の喪失こそを問題としたい。自然と共にあることとはとりもなおさず自由の感覚を保持すると言うことである。 そして人は本来自然の外気の空間を愛してきたという事をここで改めて思い起こす。温熱条件の如何に関わらず、人は外気の場という自由で解放された空気、すなわち空間を至上の楽しみとして普遍的に感じ取って生きてきた。 建築という即物的には避けがたく自由を規制せざるを得ないモノでありながら、同時に空間はひとの自由のためにありたい。それには「構築された外気の空間」 がもっている開放された五感を意識させる自由の気の覚醒に着目したいと思う。

モダニズムの有名なテーゼとして「住宅は住むための機械である・・コルビジェ」がある。これは歴史的に「機械」のコンセプトが一般化されてきたが、コルビジェの愛弟子にして我が師としての坂倉準三に学べば、本来は「住むための」がその主旨であり「より良く住む」ことがそのコンセプトであると聞く。 コルビジェに同じく常に「人間のために」を口癖としていた坂倉の言葉として 私の記憶に重い。

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