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『最近観た映画』

(area045 横浜の建築家 建築家のコラム第14回掲載文)

映画「父、帰る」を観た。新生ロシアの新鋭監督アンドレイ・ズビャギンツェフの劇映画第一作で、いきなりヴェネチア金獅子賞獲得という話題作。タルコフスキーの再来という、僕にいわせれば双方に失礼な、だが解りやすい賛辞に彩られた。

題名から察せられるように、長年家を空けた父が何の前触れもなく突然かえってくる。父の顔を記憶する兄と、父の姿を初めて見ることとなる16歳と12歳の兄弟。母親と祖母も登場するが場面はわずかである。 なぜ父は家を出たのか、なぜ帰ってきたのか、何をしていたのか、そのような夫を迎える妻は何を想うのか、いっさいを映画は説明しない。最後まで謎である。父の存在のしかたは説明しない人物であるだけでなく横暴な振る舞いでさえある。

謎めいて粗野な父ではあるが、目の奥に悲しみをたたえているように、僕には思えた。

そんな父は突然有無をいわさぬ気配で二人の息子と3人で旅に出るといい出す。とまどいつつも喜ぶ兄弟。ここでも、なぜ出発するのか、どこを目指すのか、なぜ母は一緒でないのか、映画はいっさいを説明しない。すべては観客の想像力に任されたままである。

そのようにして設定されたシチュエーションの中で、3人の旅を通じて父と子の確執が描かれる。

静謐さに満ちたミニマルな要素に還元された、神話的なイメージの風景が深い焦点深度のキャメラでとらえられて、観る者は一気に物語の世界に引き込まれる思いがする。風景の描き方だけではなく映画の形式がミニマルである。極端に少ないせりふ、舞台劇のように限定された室内空間、最小限の登場人物。. つまり観客は否応なく幾重にも物語を想像せざるを得ないこととなる。

一義的には少年がどうやって父を乗り越えて(捨ててといってもいい)男になるか、父はどうやって息子を男にするかという、あるいは結果的な父殺しの物語という、全く古くさく語られ過ぎたというべき 主題にすぎない。が、ミニマルな表現がもたらす、無数の隠喩に満ちたものがそうさせる、観た者が抱く多様な感想を聞く、おしゃべりをすることは大変興味深い。

美しく興味深い映画に出会ったということで事務所で宣伝し、結局みんなが観て晩飯の話題としてだいぶ楽しんだ。

いわく、伏線としてあったことに何度も気づかされる繰り返し、反復手法の重層感とその説得性。 宗教的あるいは神話的主題の翻訳された含意。 限定された画面ではあってもそこに発見する父親と母親の本質的な違い。 物語りの展開が想像させる体制の崩壊したソ連のその後におけるロシアを象徴するやの人物設定。あるいは、そのことを連想させる廃船における情景。 風景の描き方はタルコフスキーを彷彿させるが自然の優しさを観ているのと厳しさを観ているの決定的違いがあって、ヨーロッパ的理知主義の一元的自然観を感じて、タルコフスキーの多義的表現とは大いに異なる、と観るとか。 いや、幾重もの物語性を許容する曖昧な形式性と、輪廻を表すと読めるエンドレスな映像の形式はそれ自体多義的であり、西欧的であると同時に、アジア的たり得ている、とか。 いや、此はとんでもなく古臭い博物館映画ではないか。などなど。

一切の夾雑物を排して原型となるもののみで作られながら豊かな細部を宿し、観る者の心は自由な想像に解き放たれる。此は遺構、廃墟に接する想いに同じだ。

そしてかの有名な舞台、大田省吾の無言劇「水の駅」を80年代の赤坂で観たときに衝撃と共に想ったこと、こんな建築を作りたい、と再び思わせる映画に久しぶりに出会ったと思った。必見。

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